代表 挨拶
私達自身が動かなければ、自分達の生命は守れない。
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震による東京電力福島第1原発事故。
チェルノブイリに匹敵する、あるいはそれを超えるといわれる過酷な事故の、ほんとうの姿が見えてくるのは、これから何十年も先のことになりそうです。
ただ、すでにもう、はっきりしていることが、幾つかあります。
原発周辺の放射能高線量地域は、今後数十年、あるいは数百年も、人間が暮らせる土地ではなくなったこと。
関東・東北の広い地域に飛び散り、雨に溶けて地表のあらゆるものに付着した放射性セシウムが、これから50年100年にわたって、私達や子供達、その子供達の体に入って、生命を脅かし続けるであろうこと。
東電は、震災直後から事故を「想定外」の大規模地震と津波のためと大声に主張したけれど、実際は、大地震を想定した科学者たちの災害対策提言をコスト低減のために受け入れなかった結果の、いわば東電が起こした人災だったとはっきりしたこと。
にもかかわらずその後も、正確な情報提供を渋り続けて、なんとかして企業責任の追及を逃れようとしていること。
さらに政府は、国民の生命はなんのその。何十万あるいは何百万の人々が放射能被曝の危険にさらされているのに、本質的な対策の手を打つこともしないで、早く事故の終息を形作り、原発を再開させ、海外に原発を輸出しようと焦りまくっていること。
などなどです。
そんな事態収束策の一つが、2011年6月16日、全国の自治体に通知されました。
「8000ベクレル/kg以下の放射性セシウム汚染汚泥および焼却灰は、管理型最終処分場に
埋め立ててよい」
くわしい内容は私達の報告をご覧いただきますが、ともあれこの通知以来、私達の住む房総中南部の水源地にある2つの管理型最終処分場には、放射性セシウム汚染汚泥と焼却灰が、毎日ダンプで運び込まれ、35万人の水道水及び農業用水が、セシウム汚染の危険にさらされることになりました。
私達は、何よりも大切な自分たちの生命を守るために、立ち上がりました。
生命の安全を脅かされているそれぞれの現場で、「殺されるのは嫌だ」と、本音を言う。
その本音同士が互いに声を掛け合って、つながりあって、大きな鎖の輪になる。それ以外に、自分達の生命を守る方法はない。
と、思うのです。
一言集
市民の生命を守れない市長なんていらない。
県民の生命を守れない知事なんていらない。
国民の生命を守れない政府なんていらない。
放射性物質は、見えないからこそ怖いんだ。
セシウムってなんだ?きちんと知って怖がろう。
怖がらなければ生きられない。怖がるだけでは生きていけない。
8,000ベクレル/kgは、8,000,000ベクレル/tなんだ。
放射性セシウムは、消えない。ただ動くだけ。
生命を守るために、私達が今やれること。
他人任せでは、自分の生命は守れない。